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2008.07.17

「能書きはいらない」

「能書きはいらない!」




火曜日、夜の10時から放映している「爆笑問題 ニッポンの教養」をみた。

この番組は、いろいろと考える素材を与えてくれるのお気に入りの番組の一つ。

今週は「アートのハート 後編 ~伝えること 伝わること~」

ということで、東京芸大の学長が出演していた。

23010
















「芸術はなんのために存在するのか」という問いから、「表現とはなにか?」という命題にいつしか話題は変わっていく。

そして、「“伝えること”と“伝わること”は同じではなく、その両者が等号で結ばれることは不可能であり、人はそのジレンマに悩んでいる」

という、言葉の問題にいつしか入り込んでいたので、そういうことに興味がある僕もずっと見入ってしまった。



その中の会話でゲストの東京芸大の学長が言っていた台詞が冒頭のコトバ。



いくらコトバを並べたところで、それらはあくまで知識の集積であって、会話の中に存在する本質をついていない。ということ。つまり云いたいことがそれに隠されてしまっているということ。

そのコトバを聞いて、ボーッと空想してみると、この世の中には“能書き”が増えているなぁと感じる。

情報が氾濫するこの社会で、ホンとにいろいろな情報が存在し、またそれらを簡便な方法で手に入れることができるようになったけど、それはあくまで情報であり、モノゴトに対する知識にすぎないわけで、それを数多く脳内に記憶したところでそれは能書きにしか過ぎないということを考えたわけ。

その雑多な情報、または系統化された情報を手に入れて、記憶する過程、またはその記憶した情報を再度何らかの機会に公開する過程において、附随する本人の思考がどのように変化したのかが大切なんじゃないかと思った。




つまり、本質とは、その思考をなるべくピュア形態でで相手に伝えることがその前提にある。




最近の社会ではその能書き、つまり知識的な情報に埋もれているだけの状態になって、その中の思考のピュアな形態に削ぎ落とすことがかなり困難になっているのかもしれない。そういうことを意識した思考を心がけなければ、伝わることも伝わらない。




最近の自分を省みると、「能書き」だけをまくしたてているだけで自己の中で満足している段階に陥っているんじゃないかと少々不安になった。能書きだけで満足しているようでは、個人の教養にはたどり着くこともままならないような気がした。

教養という観点で大切なのは個人の知識量ではなく、その知識をもって本人が何を考えたかという行為なんだと感じたわけです。




そういうことをつらつらと考えたんだけど、その「能書きはいらないんだよ。」というコトバは結構刺激的なフレーズでした。




最後に。。。。


「本当に伝えたいことは、いつだって言葉にはできない。」


だからコトバとは異なる他の伝達方法として、つまり芸術が存在する理由がわかるような気がしましたね。




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